白馬三山の旅 ~人の心を耕すもの~
3日目 8月10日 白馬鑓温泉・テント場~猿倉
朝、やわらかい青い光がテントの中に溶けこんできて、目を覚ます。
昼間とはあきらかに違うひんやりとした空気が頰に触れる。
テントのドアを開くと青と赤に染まる空の鮮やかさが目に飛び込んでくる。
山の朝は本当に美しい、と思う。
山で迎える朝は格別だ。それは都会で迎える朝とも里山で迎える朝とも違う。
何が違うかといえば、挙げたらきりがないほど「すべて」が違う。
それを言葉にしてしまえば、伝わらない物足りなさしか残らない。
だから、語ることは辞めにした。少しばかりの写真とシンプルな言葉だけを残すことにした。
あとはここに来た人だけがそれを確かめたらいい、と思う。
今回の山旅の目的のひとつは、この朝陽だった。
標高2000mも超えるところなら夏場には雲海が見られることがある。
それを狙って山小屋が東斜面に建設されることもあるくらいだ。
この鑓温泉のテント場から朝の絶景を眺めることができるばかりか、露天温泉からも同様に眺めることができる。
だから、同じところに泊まった一部の登山家はさっそく朝風呂に入っている。
世界的にも高山地帯に温泉があり、山小屋があり、そしてルートが敷かれているところは珍しい。
特に北アルプス地帯はところどころに野湯があって、登山家を楽しませるばかりか癒してくれる。
野湯が登山の目的という人もいるくらいだ。
雪渓に囲まれた谷にひっそりとある温泉だが、冬になればここにも雪が降り積もるという。
小屋閉めは9月末に行われて、営業開始は6月の雪解け以降となる。つまり3ヶ月ほどしか入ることができない温泉なのだ。
江戸時代から山に入る人たちによって利用されていた歴史があるが、いつからここに湧き出し始めたのかは誰にも分からない。
湧きだしてからずっと雪を溶かし続けていたのだろう。
そして、この温泉の周囲だけ暖かい季節が長くなることから多くの生命を養ってきたに違いない。
この硫黄が溶けている熱水から地球最初の生命体が誕生したという説があるのだから、
もしかしたら、この温泉で今もまだ新しい生命が誕生している可能性だってある。
人類を含めて、わたしたち生命体は最初に生まれたところから遠く離れたところに進出して繁栄している。
最初の生命体が誕生した頃の地球とはまるで違う地球が今の地球だから、何十億年前から存在し続けている生命体に会うことができるのは
こういったウィルダネスエリアに限られる。
彼らに会いに行くことが目的なのはおそらく研究者くらいだろうが、
ウィルダネスエリアを旅するときに、そんな雑学を一つ知っているだけで見るものが深くなる。
知識とはつくづく人の心を耕すのだな、と思う。
朝からこんな絶景を眺めてしまうと、ついついそんなことばかり考えてしまう。
それにしても、この絶景を眺めながら食べる朝ごはんもまた格別だ。
今回の白馬三山の旅は4時間ほど山を下って終わった。
終わりの旅路には必ず旅が始まったばかりの人々とすれ違う。
彼らの目的を聞いて、最近の天気を共有して別れる。
これから山に入る人たちのことを少しうらやましく思いつつ、自身の旅に満足感を抱く。
それは朝一絶景が見れたから、というわけではなく無事に旅を終えることができたからだ。
結局のところ、ウィルダネスエリアの旅の最終目的地は「家」なのだ。