<悠久の時を旅する 星野道夫展>@東京都写真美術館
「人生を変えた本はなんですか?」と聞かれたら、
すぐに迷うこともなく「旅をする木」と答えるだろう。
アラスカを旅した自然写真家・星野道夫さんが記した旅のエッセイ本である。
すでに星野道夫さんが亡くなって25年以上経っているにも関わらず、
今でも毎年のように星野道夫さんが撮った写真と綴った言葉の展示会が全国のどこかで開催されている。
そして、毎年のようにどこかで開催されている展示会に足を運んでいる。
「旅をする木」という本が何度読み返しても新鮮であるように、
この「悠久の時を旅する」というタイトルがつけられた展示会もまた何度も足を運んでも飽きることがない。
星野道夫さんの旅のエッセンスがぎゅうっと厳選された一つの旅だ。
見慣れた写真に、聞き覚えのある言葉、聞き慣れた地名に、身に覚えのある人々。
何度も読み返した言葉が、何度も目を通した写真が、何度も空想にふけった物語が波のリズムのように現れては消え、消えては現れる。。
星野道夫さんの写真と言葉には、広さも深さも計り知れないものがある。
それはまさに原生自然アラスカの原野そのものだろう。見栄も偽りもないそれらは等身大であるがために、計り知れない広さと深さを内包する。
20歳の時に出会ってしまった「旅をする木」は
都会で生まれ育ってきた私を強く突き動かし、
まわりの大学の同級生がリクルートスーツを身にまとい、黒い鞄を片手に就職活動に行く流れのなか、逆向きにゆっくりと山に足を運ばせた。大きなオレンジ色の派手なバックパックを担ぎ、一眼レフを片手に。
生まれて始めた登った山が高尾山で、それから数年後には全国や海外の原生林を旅していた。
星野道夫さんの作品に出会い、人生が変わってしまった人は多い。
最近、そういった人たちと出会う機会が急に増えた。
彼らとコーヒーを片手に、星野道夫さんの作品との思い出話に花を咲かしていると
それぞれが、それぞれの軌跡を辿ったとしても、奥にある魂みたいなものはつながっている感覚があることに気がついた。
不思議なものだ。
アラスカを旅した人も、そうでない人も、まるでアラスカでクジラの息吹を感じたことがあるかのように。
遠い目をしてそれぞれの旅の話をし始めて、聴くものたちは皆、風のような物語に聞き入ってしまうのだから。
実はまだ、アラスカを旅したことがない。
いずれは行きたいとはおぼろげに思っていても、強く志したことがない。
「行ってみたい」ではなく「どうしても行く」という気持ちがまだ湧いてきていなかったのだ。
しかし、この数週間の間に少しだけ変化があった。
それはいま一度「クジラに会いに行きたい」と思っているのだ。
むかし、小笠原諸島で半年間過ごしたときにはじめてクジラに出会った。
ザトウクジラの宙を舞うブリーチング、青いキャンパスに白い息吹、ただただ広がる海原に小さくて大きい存在。
あの時であったクジラはいまちょうど小笠原諸島に到着している頃だろう。
彼らは冬の間に温かい海域で出産、子育てし、夏にはアラスカや北極海に旅をする。
最近、何度もクジラのビジョンが心の中に浮かんでくる。
深くて暗い、暗くて深い闇の海の底でじっとしている。
そこから一気に光の射す方へ泳ぎあがっていく。次第に青く明るい水面が見えてくる。もう少しだ。
そして、静かな水面に身体をそっと浮かび上がらせると、その勢いのまま息を吐き出す。
ぶふぁーという轟きの吐く息と、それに連なって自然と吸い込まれる息。
そこにその光景をじっと見つめる人々がいることに気がついたのはつい先日だった。
小さな舟に身を寄せ合って息を潜めている。
その光景に見覚えがあった。どこかで見たことのある人々だった。
その人々こそ、星野道夫さんがポイントホープで撮影したクジラを狩猟する民族たちだった。
その写真のパネルの前に立ったとき、「あぁ、これか」という安堵した気持ちが身体中の細胞を伝っていく。
旅人には、旅を始める前の不思議な感覚に覆われることがある。
それは言葉で表現するならば、自分の意思のほかに、誰か大いなる存在の意思が感じられる感覚だ。
自分の意思で動きながらも、誰かに動かされているような感覚。
そこには未知なるものへのワクワクと、未知なるものへの不安が入り混じる。ドキドキというのは希望と不安が入り混じった曖昧なものだ。
こういうとき、最初の一歩を踏み出すには勇気がいる。覚悟がいる。準備がいる。
いったい、何から始めたら良いのだろうか。何が必要なのだろうか。
今すぐに動き出したい気持ちの背後に、膨大な不安が襲ってくる。
しかし、旅人という生き物はもうすでに分かっているのだ。
「悠久の時を旅する」展示会の最初のパネルに、その言葉は掲げられていた。
「大切なことは、出発することだった。」
新しい旅はもうすでに始まったのだ。
あとはゆっくりとその道を歩み続けるだけだ。
旅というのは、いつだって道そのものなのだから。