<久住・黒岳原生林の旅 シンプルに生きること>
2日目 2022.11.11 坊ガツルキャンプ場~くじゅう連山
ふと目を覚ますと、もうすでに空は明るく、昨日超えてきた大船山から太陽が覗こうとしていた。
いつもより深い睡眠に誘われたのは、ここに来るまでの多忙な日々の疲れだけではなく、この法華院温泉の源泉とここの冷たくも清い空気のおかげだろう。
これだから山での温泉とテント泊はやめられないのだ。
今日の日程は九重連山の中心地である久住岳と中岳を登るだけだ。
ゆっくりと朝ごはんの用意をして少しずつ身体を睡眠から覚ましていく。
坊ガツルに広がるススキはまさに淡いススキ色をして風に吹かれている。
そのリズムに合わせてテントも揺れ、バーナーの火も揺らぐ。
そんなテントでは当たり前の景色も、普段の生活ではなかなか見かけることがないのは寂しいものだ。
山の醍醐味はたくさんあるが、やはりその山で汲み上げた水から入れるコーヒーだろう。
たとえ、寝坊したとしてもコーヒーだけは淹れてしまうのだから。
当初の予定では1泊2日で久住の旅を終える予定だったが、急遽2泊3日変えた。
だから、今日の予定は久住連山の中心地をゆっくりと歩くこととなった。
実は久住岳も中岳も当初は登る予定がなかった。
いつも山仲間に話すと驚かれるのだが、私が山に入る目的は原生林と山奥でのキャンプなので、百名山がそこにあっても登頂せずにスルーすることはよくある。
理由は簡単だ。山登りはキツイから(笑)
しかも、頑張って登っても必ず絶景を見せてくれるとは限らないじゃないか。
原生林は雨が降っても楽しむことができる。いや、雨が降っている時の方が美しい。
今回の旅を3日間に変えたことで、荷物を減らして山頂を目指すことが可能になった。
だから、トレーニングのつもりで登頂しようと決めたのだ。
ほんとに自分はへなちょこだなぁ、と思う。
この日もまた秋晴れだった。
くじゅう連山の中心地にはほとんど樹林帯がない。
「千里が浜」という名称が付けられているエリアがいくつかある。
名前の通り土は砂浜のように石ころだらけで、樹林帯が形成されるような土はない。
どこにもススキか灌木だけがなんとも寂しそうに生えているだけだ。
よくここに遊びにくるという久住好きの登山者に話を聞けば、坊ガツルを中心としたエリアは大規模な火入れをしているという。
それがこのススキがめいいっぱい広がる黄金の景色を作り出しているわけだ。
火を入れるということは私たちホモ・サピエンスが数十万年前からし続けている自然との対話の一つだ。
それは一見自然破壊にも見えるが、ホモ・サピエンスとその仲間の家畜たちが生きていくためには必要なことでもある。
現在、日本で行われている火入れは景色を維持するために行われることがほとんどだが、本来は家畜たちとの暮らしを彩るための重要な仕事だった。
形はどうであれ、何百年もの歴史がある伝統的な火入れは今もなお続いている。
法華院山荘から少しずつ高度を上げていく。
三俣山、硫黄岳、星生山とくじゅう連山を構成する山々を縫っていく。
それぞれの山に趣があり、個性があり、そこからの景色がある。
くじゅう連山は7つもの主峰が連なる山々だが、これに四季があり、その日の天気がある。
だからこそ、飽きることのない山歩きがいつでもできるわけだ。
だからこそ、くじゅう連山は多くの人を惹きつけて、何度も通わせるのだろう。
星生山と久住岳の合間の久住分かれまで一気に高度を上げていく。
冷たい空気と暖かな息が混じり合って、空に昇っていきながら消えていく。
もうすでに秋も深まり、冬の空気が漂う。
外の空気は冷たいが、山を登る身体の芯は温かい。
くじゅう連山のしじまに、季節のはざまが混ざり合う。
その中をすり抜けるようにブーツの音が響く。
久住分かれにたどり着くと、多くの人々と合流する。
牧ノ戸峠から登ってきた日帰り登山者たちだ。
初心者でも気軽に登れるのも久住岳の魅力の一つ。
一人静かに山を登るのも悪くはないが、多くの仲間隊に囲まれて登るのも安心感がある。
久住岳も、九州本土最高峰の中岳の山頂も人がいっぱいだ。
よく晴れた土曜日ということもあって、誰もが賑やかに昼食をとっている。
雲の合間から見える町並みと山並みに人々は表情を緩めては写真撮影に励む。
山頂でコーヒーを入れて、昼食の支度にとりかかる。
つくづく山の旅はシンプルに生きることだなぁ、と思う。
必要な道具だけを担いで、必要な分だけ歩いて、必要なものだけを食べる。
その過程にある景色を楽しみ、出会った人たちと交流し別れ、それぞれの道を思い思いに歩く。
高いところに登れば、自分の小ささに気がつく。
高いところから見る人の暮らしは、ちっぽけなくせに愛おしい。
そんなことに気がつくために山を登っているんじゃないかと思う節もある。
きっと、そんなことを考えさせてしまうのも山の魅力なのだろう。
一人コーヒーを飲みながら、周りの人々の緩んだ表情に心が満たされる。
さぁ、山を降りよう。また一人になろう。
また山のしじまに身を潜めよう。
法華院温泉に入って、テントの中で静かに過ごそう。
「ひとり」であることは「わたしたち」を広げる。
「わたしたち」であることは「ひとり」を深める。
まるでそれは、くじゅうの一つ一つの山に個性があり、連なることで魅力を増すように。
そして、その魅力の深さは知れば知るほど、歩けば歩くほど深まっていくのだろう。
山の魅力とは、きっとそういうものだろう。