<三瓶山自然林 2022.5.3>
『ひとつの生命として』
「自然林」というのは「二次林」や「天然林」とほぼ同じ意味合いで、「過去に人間による開発があったのちに放置もしくは保護されて久しい森林」ということになる。
この三瓶山自然林は過去に人間による放牧や野焼き、炭焼きが行われていたが、利用されなくなり、のちに国立公園に指定されたことで保護された地区だ。
ほんの一部分だけに極相となるブナ林が立ち並び、温帯に自生する落葉高木林がそのほとんどを占める。
三瓶山は過去の大規模な火山活動によって生まれたカルデラ火山であるために、一つ一つの岳が連なって弧を描くことでそれぞれの山にそれぞれの微気候がある。
そしてもちろん、それを結ぶルートの表情が違うことがわかる。
自然遷移の法則に従ってそれぞれの森は姿を少しずつ変えていく。
その景色の違いがよく分かるのがこの新緑の季節と紅葉の季節だ。
多くの人が山に入っていく季節。過ごしやすい気候でありながらも、美しさが増し、生命が躍動する。
昔から人々はこの季節に山に入って、その生命力に感動していたのだろう。
山の奥へ奥へ旅をすると、ひとりの人間としてよりも、ひとつの生命として、どう生きるのかを問われているような気がする。
それはきっと、ここに生きる全ての生命が「ありのままに生きている」からだろう。
彼らは誰一人として目が死んでいない。
自然林(二次林)は極相林と違って、樹種数が圧倒的に多い。
それぞれに葉の形が違い、同じ緑だとしても色が違い、背丈や樹高や枝張りが違う。
そのため、彼らの森林は立体的でどこにもかしこにも生命が舞っているようである。
私たち人間は多様性を好む。
それぞれが自分らしさを求めて、自分らしく生きようとする。
それはおそらく私たちの周りの生命たちが多様性の世界を創り出して生きているからではないだろうか。
私たち人間は多様性が分からない。
それぞれが自分らしさに悩み、自分らしく生きながら苦しむ。
それはおそらく自然界にある多様性に目を向けていないからだろう。
多様性とはただの寄せ集めではない。
関係性の中で育まれるものだ。
隣の木との兼ね合い、微気候の違い、動物たちとの関わり合い。
それが相舞って、個性となる。
それはいびつだが、美しい。
凸凹だが、角がない。
誰にも似ていないが、周囲に溶け込む。
ひとつの生命として生きようと思えば、その風土にも影響を受け、周りの生命とも互いに関わりあう必要がある。
個性とか、オリジナリティーとか、アイデンティティとか人はああだこうだと言うが、
それは考えて生まれるものでもなかれば、占いや心理テストで決まるものでもない。
ひとつの生命として、多様性の世界で生きるからこそ、育まれるものだ。
私は山を旅するたびに強くそう思う。