<知らないことの喜び、想像することの深み>
@奥大山 木谷沢渓流 2023.6.17
オオカミの遠吠えを初めて聞いたのはアメリカのシエラネバダ山脈の山奥を旅していたときだった。
それは夕暮れ時に同じところにテントを張った旅人とともに焚火を楽しむために薪を集めているときだった。
(アメリカの国立公園内ではファイヤーサークルがあるところでは焚火が自由にできる)
そのとき私はすでにアメリカの原生林を1ヶ月近くも旅をしていて、クマにもたくさん出会っていたし、植生についても気候についてもおおよそ知っていた。
だから、私にとってアメリカの原生林は「知っている」つもりだった。
私よりもふた回りほど年上の旅人が「これはオオカミの声だよ」と優しい英語で私に教えてくれたとき、
突如として私が理解している世界の壁はぶち壊されてしまった。
壁の中で育った人間が、壁の中の世界をすべての世界だと思い込んでいて、
それが突如としてぶち壊されて、壁の外側に続く広大な世界に出会ったときを想像してみてほしい。
そこでどんな感情になるのか、どんなことを考えるのかは人それぞれだろう。
私にとってその出来事は「知らないことの喜び」がふつふつと湧き上がってくる出来事だった。
私の人生を変えてしまった星野道夫さんの代表作「旅をする木」の中にこういう言葉が書き残されている。
『情報が少ないということはある力を秘めている。それは人間に何かを想像させる機会を与えてくれるからだ。』
私はオオカミにまだ出会ったことがない。
しかし、私には遠吠えだけで十分だった。
まだ私には知らない世界があり、その世界の広大さと深さを想像させるには。
アメリカの原生林の旅の終わりに近づいていた私にとって、
オオカミの遠吠えは十分すぎるほどの想像力を掻き立てる出来事だった。
この原生林のどこかにオオカミがいて、私が歩いてきた道に、これから歩く道に、そのオオカミもまた歩いている。
そして、ハンティングをし、水浴びをし、昼寝をし、遠くの旅人に届くように天に向かって重低音の響きを奏でる。
その原生林の旅の中でオオカミに出会うことはなかったが、
焚火の味わいは変わった。
風の香りが変わった。
木々の揺らぎが変わった。
知らない世界があること。
知らない世界を想像すること。
それだけで良かった。それが旅を変えた。
「知らないことの喜び」と「想像することの深み」が原生林の旅を新しい色に染め始めたのだ。
現代社会は常に私たちを錯覚させる。
まるですべてを知っているかのように振る舞い、語り、記録する。
この世界の隅々まで人間は足を運び、記録し、世界中に無制限にバラまく。
しかし、現代人のそういった試みはすべて「錯覚」は与えるが「実感」を与えてくれない。
「知った気」にはなるが、「想像する機会」を与えてくれない。
おそらく現代社会が遊びにあふれているのに退屈なのは、それが原因だろう。
そして古き良き社会にあった旅人の夜の語りに誰もが夢中になったのは、想像する機会を与えてくれたからだろう。
日本からオオカミは居なくなってしまったらしい。
それでも私にはオオカミがいた山を想像することができる。
夕暮れ時の焚火の前でオオカミの遠吠えが聞こえてくることを想像し、
曙の原生林から静かにこちらを伺うように顔を出すオオカミを想像する。
私はそれだけで「知らないことの喜び」を享受し、「想像することの深み」を旅するのだ。
それはどうやら人間だけに与えられた才能らしい。