<道を見失ったとき ~鳥の声を聴け~>
@屋久島の旅 益救参道 2023.8.21
原生林が残る道は登山道の中ではマイナーなルートであり、そのルートを選ぶ人は少ない。それだからこそ、原生林の静けさを十分に味わえるのだが、ときにそれはルートが不明瞭となり、道迷いや遭難のリスクを高める。
とくに台風による倒木や大雨による土砂崩れが多発するルートでは道しるべであるピンクテープが落ちてしまったり、道そのものがまったく見当たらないことも多い。
丁寧にピンクテープと足跡が残るルートを辿ってきたとしても、急に道を見失ってしまうのだ。たかが数十メートルに過ぎない道の分断だが、そこで正しい方角に進めないと間違いなく遭難してしまう。
あなたならいったいどうするだろうか???
これは難しい問いだ。地図を読める人ならある程度方角だけなら予測を立てられるが、正確に登山道を見つけ出せるとは限らない。なぜなら、どこまでピンクテープが残っているのかが分からないからだ。
また登山経験者の多くはこういった場面に遭遇したことがない。大抵の人はピンクテープや踏み跡がしっかり残っている登山道を歩くから、道を見失うとしたら濃霧の時くらいだろう。そして、その場合は分かるところまで戻れば正確なルートを見つけることができる。しかし、今回の場合は戻ったとしてもそこから正しいルートを見つけ出さなくてはいけない。
屋久島の旅ではまさに何度もこういった場面に遭遇した。誰も歩かなくなった道は自然遷移に沿って森林に戻りつつあり、藪漕ぎすら困難を極めた。見つかる踏み跡は私と同じようにココに来て、道を見失った人々の軌跡だった。
私はこういうとき、心を落ち着かせるために十分に時間を取る。何よりもまず最初にすることは「落ち着くこと」だ。でなくては、見失った道をもう一度見つけ出すことも、新しい道を切り開くことも難しい。重たいバックパックを下ろして、水を口に含む。目を瞑って、胸に手を当て、深くじっくり呼吸をする。
ゆっくり目を開ける。これだけで見えている世界が変わったことがよく分かる。そして、見える範囲のすべてのものに目を凝らす。些細な痕跡を見逃さないように、微々たる印を見逃さないように。
すると突然、視界の端っこでカラスが飛び立つ。その音と動きにビクッと反応するとともに、その方に目を凝らす。遠く遠くに、小さく小さくピンクテープが見える。あった!道があった!と心の中で喜びながら、そこに至る安全なルートを目で足で辿って導き出す。
こういうとき、たいていカラスかハトが道を教えてくれる。ときには小さな鳥が鳴き声で教えてくれることもある。この話をするとほとんどの人が驚くのだが、私は道を見失ったとき、いつだってこうやって道を見つけ出してきた。
私の山小屋の師匠はこういった「天気と道のことは鳥に聴け」と。おかげで遭難することはあれど、今もこうして元気に生きている。遭難がきっかけで事故で怪我したり、ビバークしたこともない。
私にはこの現象について科学的な説明も合理的な説明もできない。鳥類学や動物行動学の本をかたっぱしから読んだこともあるが、そんな話は一度も耳にしたことがない。ただ言えることは今までの原生林を旅するの中で、いつだって困ったときは他の生物が助けてくれたということだ。
日本神話の中ではヤタガラスが道案内役を務める。ネイティブアメリカンの神話の中ではワタリガラスはトリックスターとして秩序を破り、新たな世界を作り出す。私にはこのカラスと人間の関わり合いは空想上の神話ではなく、事実に基づいた物語のように思える。
遭難した時の対処法の話をしたとしても、こんな方法ではあなたには役に立つわけではないだろう。しかし、こういった話を人生に置き換えたとき、それは大切な教訓となる。
あなたがもし、今までのやり方や考え方で困難に遭遇したとき、道を見失ったとき、その今までのやり方や考え方に固執してしまっては解決するわけがない。むしろ困難はより困難さを極め、道を見失ったままどんどん奥へと迷い込んでしまうだろう。
うまくいかなくなったときこそ、自分に固執してはいけないのだ。他人の力、生物多様性の力に頼ることで道が開ける。だから「他人の話を聴く」ことができる人は強い。それもあなたにとって社会にとって、トリックスターのような存在、いやむしろ、みんなから煙たがられているような存在の声は道を開く救世主となる。
そういった変わり者と仲良くなれというわけではない。その存在からの声を「カミ」(神様でも仏でもご先祖様でもなんでもいい)からのメッセージだとして受け取ることができれば、あなたの頭で考えても困難でしかなかったことが、美しい出来事に生まれ変わる。
古来から江戸時代まで日本人は辻占いという形でどこの誰だかわからない人々の声を聴いて、道しるべの参考にしていた。畑を荒らしに来る獣から忌み嫌われる虫まで神様からの使いとして崇め、彼らの出現からメッセージを受け取り、暮らしてきた。
近年、生物多様性がパワーワードとして叫ばれるようになったが、流行語のように消費させられているように感じる。
私にとって生物多様性とは「他者の声を聴く」ことであり、「彼らとの繋がりの物語」を生きることである。それは科学的であってもいいし、非科学的であってもいい。ただ彼らの存在のおかげで生きているという実感が伴う体験こそが、生物多様性の物語を紡ぐことができるのである。