<ヒマラヤを識る言葉~シェルパ族~>
エベレスト登頂に多大な貢献をしたことで世界中に知られるようになったシェルパ族。
じつは多民族国家ネパールの中でたった1%に過ぎない人口にも関わらず、ネパールを代表する民族だ。
彼らは約500~600年前にグレートヒマラヤを越えて
チベット高原からやってきた移住者たちだった。標高2000M後半から夏には5000Mほどの高さまで彼らは居住空間として利用している。しかしその暮らしぶりは零細農業であり、わずかばかりの畑と家畜で生計を立てていた。
1959年のチベット動乱以前は首都カトマンズよりもチベットの首都ラサのほうが強いつながりを持ち、チベット交易も彼らの収入源だ。
1920年代にインド・ダージリン地方の茶畑農業の出稼ぎに来ていたシェルパ族の献身性と勤勉さをたたえていたのがイギリス人たち。
1950年ネパールの鎖国政策が解かれ、ついにエベレスト登山が解禁されると、イギリス登山隊がシェルパ族を山岳ガイドやポーター(荷担ぎ)に雇用し、それに十分に貢献する。
そして、ついに1953年、イギリス登山隊のエドモンド・ヒラリー(ニュージーランド人)とシェルパ族テンジン・ノルゲイによって世界で初めてエベレスト登頂を果たす。
これを機にヒマラヤの神々の山嶺たちを次々とシェルパ族とともに世界トップクラスの登山家たちは初登頂を果たしていく。
それだけシェルパ族が持つ登山技術と経験、体力は群を抜いていた。
その後、1970年代に突如として起きたエベレストトレッキングブームによって、シェルパ族が住む世界で最も過酷な地域にも現代文明の波が世界中の人々と一緒に訪れた。
その急速な発展に伴い、原生林と伝統的な文化もまた同様に急速廃れていく。それでも彼らは完全に伝統を捨てることはなく、わずかばかりの原生林も残った。
今回の旅では彼らの暮らしぶりを見学しながら、ときに話を聞きながら歩いた。彼らの暮らしは誰も教えていないにも関わらずパーマカルチャーそのものだった。
彼らはいかにして伝統的な暮らしの中に現代文明を溶け込ませていったのだろうか。彼らが暮らしの中で何を大切にしていたのか。そして、私たち現代人はそこから何を学べるだろうか。